徳舛瓦店 甍技塾 瓦葺きの魅力

瓦葺きの魅力

屋根と屋根材 ROOF & ROOFING 2004夏号 屋根と屋根材 ROOF & ROOFING
2004 夏号 掲載 / 2004年7月15日発行

建築・設計と屋根を結ぶ情報誌「屋根と屋根材 ROOF & ROOFING」(日本屋根経済新聞社 年4回発刊)に掲載している「瓦葺きの魅力」をご紹介します。

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顕正寺・本堂



顕正寺・本堂
【顕正寺・本堂】
顕正寺(けんしょうじ)本堂は、正面に向拝、裏面に縋(すが)る破風を設けた入母屋造りの建物です。平成13年に修復工事が行われ、復元をもとに葺き替えられたこの本堂の見所は、大棟に水板(みずいた)を使用していること、降り棟と隅棟に箱冠(はこがんぶり)瓦を使用していること、軒丸瓦の文様、破風尻の納まり、屋根の開きなどです。破風の弛(たる)みと転(ころ)びが強く、棟の飾りや仕様により、一種独特の雰囲気をかもし出しています。

水板瓦
写真1 水板瓦の納まり(表面)
顕正寺本堂の大棟の正面には、板状の瓦が横に並べて葺かれています。この板状の瓦は水板瓦(写真(1))と呼ばれ、棟を飾る瓦として、動植物や文字・風景など、多種多様な模様で作られることが多く、見る人の目を楽しませてくれます。

写真2 熨斗瓦で積み上げている(裏面)顕正寺の場合は、高さ1尺7寸、幅2尺の水板瓦が17枚一組で構成されていて、全体の下部には、波がうねって渦を巻いている様子を、上部には風に乗って雲が動いている様子を描いています。そして、その間を縫うように、雌雄の竜が三匹、悠々と飛びかうなど、深い彫と立体的な作りによって、とても迫力があり、屋根全体の存在感を演出しています。この水板瓦は本堂造立当初のものと想定され、焼き直して再使用されました。また、裏面には水板瓦を使用せずに熨斗(のし)瓦を積み上げて仕上げている屋根も多く、ここでも熨斗瓦を16段積み上げて納めています(写真(2))。

水板瓦を使用する場合の棟反りは、あまり強く反らさずに、少しゆったりとした感じに仕上げるほうが好ましいでしょう。

軒丸瓦の文様
写真3 連珠文と左巻き三つ巴文顕正寺本堂の軒丸瓦の瓦当文(がとうもん)は、外縁の中に連珠文(れんじゅもん)が円を描き、その中に左巻き三つ巴の文様が入っています(写真(3))。社寺屋根の軒先や破風部分を飾るものとしては、一番ポピュラーなものです。

軒丸瓦の文様は、奈良時代までは蓮華文(れんげもん)写真(4))が主流であり、平安時代後期から、違った形の多彩な文様が出始めました。三つ巴文もこの頃に出現したともの考えられています。

写真4 連珠文の例/ 写真5 右巻き三つ巴文の例その後、家紋(注1)を入れた軒丸瓦が作られるようになり、それが都の重要な建物に使われ始めると、さまざまな瓦が葺かれたために、都全体の統一感がなくなり、景観が悪くなりました。そのため、町並みが揃うようにと、単純で明快な三つ巴文が広く使用されるようになりました(注2)。三つ巴文が、水が渦巻く様子を表したものとして、防火の願いをこめていることもひとつの要因であったと思われます。

三つ巴文には、昔から左巻きと右巻き(写真(5))の両方の模様がありましたが、一般的に左巻きが多いのは、巴という漢字が左巻きだからだと考えられます。平安時代後期以後、三つ巴文が主流となり、それが代名詞となって、軒丸瓦のことを巴瓦と呼ぶようになりました。
[注1] 平安時代中期頃、家を重んじる公家の社会で、装束や乗り物に自分の家紋を作って入れるようになったのが始まりとされている。
[注2] 地方の有力者が都の権力者の歓心を買うために、それぞれの家紋を入れた軒丸瓦を都へ送ったため、形や大きさ・文様などが不揃いとなり、統一する目的で三つ巴文が広く採用された。



箱冠瓦
写真6 降り棟の箱冠瓦
写真7 隅棟の箱冠瓦
顕正寺本堂では、降り棟と稚児棟、二の棟に箱冠瓦を使用しています (写真(6)(7)
大棟に使用されることの多いこの瓦が、それ以外の棟にのみに使われるのは意匠的に大変めずらしく、独特の雰囲気を作っています。鬼瓦に近づく部分も、捨て熨斗瓦を入れるのではなく、徐々に大きな箱冠瓦を作り、高さを変えながら反り上がりをつけていて、所々に寺紋をいれるなど、装飾性と重厚さを演出しています


破風尻の納まり
破風尻の納まりには、掛け巴瓦を最下部に入れる場合(写真(8))と、掛け唐草瓦で終わらす場合(写真(9))の二通りがあります。どちらの方法も見かけられ、割り付けに合わせて使い分けられています。破風尻は、瓦屋根の見所のひとつとされ「芯を入ること」「最下部の掛け瓦の小口を見せないこと」「きれいな線を描くこと」の三つがポイントとなります。

顕正寺本堂では、掛け巴瓦で終わらせており、最下部の掛け巴瓦とその下の素丸瓦との芯を合わせています。また、二ノ棟の熨斗瓦と最下部の掛け巴瓦の接点では、掛け巴瓦の胴体ができるだけ見えないように工夫する必要があります。二ノ棟の肌熨斗(はだのし)瓦の前面が掛け巴瓦の瓦当の裏くらいにくるのが理想です。流れるような掛け瓦の線は、屋根にリズミカルな陰影を与えてくれます。

写真8 破風尻の納まり 写真9 破風尻の唐草納めの例

図ア 水板瓦大棟断面図

屋根の開き
写真10 破風板の転びが大きい社寺建築では、建物を下から眺めた場合、遠近感により一番高くて遠いところにある大棟部分が、軒先のところより小さく見えてしまい、建物全体に広がりがなく、堂々とした感じがなくなるおそれがあります。そのため、破風板には「転び」をつけて、上へいくほど外側へ出して開いた形で納めてあります。 

顕正寺本堂では、この転びが非常に大きい上に、裏甲(うらごう)の出寸法が破風板の上下で中央より多く出してあるため、片側で8寸以上もの開きがありました。そのため、大棟際での平瓦の割付寸法を軒先部分より広くとり、平瓦全体を扇状に葺くとともに、降り棟より外側では、幅の広い平瓦を上部に使用して、上下の幅の差を補っています(写真(10))。


顕正寺
三重県四日市市西日野町にある椎木山顕正寺は、真宗高田派の末寺です。旧号を総持庵(そうじあん)と称し、鎌倉時代末期の名僧虎関師錬(こかんしれん)が開いた伊勢安国寺の堂頭(どうちゅう)(住職の居所)が前身であると伝えられています。天正4年(1576)に織田信長の命による瀧川一益の兵火にあい、境内全域を消失しました。現在の本堂は、文化3年(1806)に造立されたものです。明治9年には、神戸(かんべ)城(鈴鹿市)の大手門を引き取り、山門として移築しています。この山門は高麗門(こうらいもん)形式で、四日市市の指定文化財に登録されています。


参考文献: 物語・ものの建築史「和瓦のはなし」
山田幸一監修 藤原勉・渡辺宏著
瓦施工 / 甍技塾徳舛瓦店 有限会社



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